日本の教育基本法における「人格の完成」

前回の記事に引き続き、「人格の完成」とは何なのかを考えていきたいと思います。

はじめに

 「人格の完成」という言葉は、日本の教育基本法第1条において、教育の究極的な目的として掲げられています。この言葉には、教育が目指すべき方向性が示されており、個々の子どもたちの全人的な成長を目指すことが求められています。しかし、その具体的な解釈や、現代の教育においてどのように実践されるべきかについては、多くの議論がなされています。

「人格の完成」とは?その歴史的背景

 1946年、戦後の教育改革のために設置された教育刷新委員会において、教育基本法の第1条で「教育の目的」をどのように規定するかが議論されました。このとき、「人格の完成」という表現に対する異論が続出しました。多くの委員は「人格の完成」が抽象的で基準的な印象を与えるとして、代わりに「人間性の開発」という表現を提案しました。「人間性の開発」は、個々の持つ能力を自由に伸ばし、内在する可能性を最大限に引き出すことを目的とする、より柔軟で現実的な目標として支持されました。

 しかし、最終的には法学者であり当時の文部大臣であった田中耕太郎の強い意向により、「人格の完成」が採用されることとなりました。田中は、「人格の完成」という理念が、教育が目指すべき理想的な人間性を象徴すると考え、「人間性の開発」では、現実の人間が含む動物的な性質や悪に傾く性質も含まれかねないとし、教育の目的としては不適当であると判断したのです。この背景には、田中がカトリックの自然法論を思想的基盤としていたことも影響しています。彼は、「人格」という概念が人間の理想的な性質を示し、その完成を目指すことが教育の本質であると考えていました。

共通点と相違点:異なる視点からの「人格の完成」

 教育基本法における「人格の完成」について、さまざまな論考がありますが、それらに共通するのは、この理念が教育において果たすべき重要な役割を強調している点です。多くの論考が、人格の完成が人間の道徳的および倫理的な側面を発展させるための目標であるとしています。

 一方で、この理念の解釈と具体的な適用に関しては、論者によって意見が分かれています。一部では、人格の完成が到達不可能な理想であるため、その実践に具体性が欠けると批判されています。これに対して、他の論考では、到達不可能だからこそ、その理想を目指し続けることが教育における無限の努力を促す重要な理念であると擁護されています。

まとめ

 教育基本法に「人格の完成」と書かれるまでには、色々な経緯があったようですね。

 日本の教育基本法における「人格の完成」という理念は、非常に抽象的でありながら、教育の最も重要な目標の一つです。この理念を、現代の教育や子育てにどう活かすかについて、親として、また教育者として考える必要があります。

 「人格の完成」という言葉には、キリスト教的な「神に近づく」という考え方が含まれていますが、仏教や密教的な「人間性の開発」という考え方とも対比させることができます。個人的には「人間性の開発」の方がしっくりくるような印象を受けますが、二つの理念を統合し、子どもたちの全人的な成長を目指す教育を実現することで、より良い未来を築く手助けができるのではないでしょうか。

 現代の子育て世代において、「人格の完成」という理念は、子どもたちが自らの内なる力を引き出し、社会での役割を果たすために必要な道徳的・倫理的な力を育むための道標となるでしょう。

参考文献

 参考にした文献の情報を載せておきます。

宮村 悠介, 教育と倫理 ─「人格の完成」をめぐって─, まてりあ, 2017, 56 巻, 4 号, p. 275-278
中村 清, 人格の完成をめざす教育の意味, 教育学研究, 1998, 65 巻, 4 号, p. 299-307
井上敏博. 教育の政治的中立に関する一考察. 城西大学女子短期大学部紀要, 1987, 4.1: 113-127.
宮村悠介. 人格論の伝統と現代――人格の倫理学のために――. 2016. PhD Thesis. Aichi University of Education.
山口意友. カント 『教育学講義』 における 「人間性」 と 「人格性」 について. 論叢: 玉川大学教育学部紀要, 2017, 17: 81-99.

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